「和解」(志賀直哉)

読み手に深い感動を与える「手法」と「構成」

「和解」(志賀直哉)新潮文庫

前年に幼くして死んだ娘の
墓参りに上京する「自分」。
麻布の家に電話をかけると、母は
「今日は家に父親がいる」という。
「そうですか。又その内に
出て来ましょう」と答える「自分」。
父親との間に横たわる確執…。

前回、志賀直哉
「流行感冒」を取り上げました。
続けて読んだのが本作です。
これまで何度か読み返していますが、
共通する部分を感じる両作品です。

一つは、事実を淡々と積み重ねながら、
読み手を深い共感に導く手法です。

「流行感冒」では、
一家が感冒にかかる前後を
ありのままに描写し、
あたかも雨が上がって
爽やかな青空が到来したような
心象風景を創り上げています。

本作品では、
「上の赤ん坊の死」と
「新たな赤子の誕生」の
一部始終を克明に書き綴り、
底の知れない悲しみと
その後にもたらされた無上の喜びを、
読み手は前後して
感じることになるのです。
恐ろしい台風の夜が明け、
秋晴れの朝空を迎えたような、
強い感銘を覚えます。

もう一つは、主人公=作者自身の心情が
180度転換するようすが、
飾ることなく描かれている構成です。

「流行感冒」では、
女中・石に対する感情が
嫌悪から受容へと、
家族の罹患を境に変化したようすが、
読み手には
自分の心の変化のように感じられます。

本作品では、
父親に対する「自分」の思いが、
赤子の死と誕生をきっかけに、
憎悪から愛情へと
大きく転じる過程が
克明に描かれています。

この「手法」と「構成」が相まって、
読み手に深い感動を
与えるのだと思います。
第一子の早すぎる死の
もたらした絶望感が
父子のすれ違いを
大きな亀裂へと拡大させる。
そして第二子の
誕生の歓喜によって
父親に対するわだかまりが
氷解してゆく。
この一連の流れが、
小説にありがちな
大げさな装飾や技巧臭さを
付け加えることなく、
まさにありのままに
書き記されているのです。

そして両者が和解する場面では、
「父は泣き出した。
 自分も泣き出した。
 二人はもう何も云わなかった。」

言葉はもはや必要ないのです。

学生時代に読んだときには
十分に味わうことが出来ませんでした。
いや、十分に味わう力が
私になかったのでしょう。
「自分」を超え「父親」に近づきつつある
年齢になった今読むと、
場面の一つ一つが
妙に胸に迫ってきます。
人生の折々で
読み返すべき一冊だと感じています。

(2018.9.29)

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